羽幌坑(本坑)

昭和23(1948)年開坑。※羽幌坑は、開坑後しばらくは羽幌本坑、そして上羽幌坑を羽幌二坑とし、両坑の事務所を羽幌坑に置きました。
終戦と同時にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、石炭の増産を「経済復興の重点課題」にあげ、政府に対し全国的に新炭鉱開発を促しました。
昭和21(1946)年12月、政府は石炭3千万トン増産の傾斜生産方式を発表します。
羽幌炭砿にも新鉱区開発の要請があり、それに従い羽幌坑が開坑されました。
鉱区開発には「住宅建材の木材はじめ生産に要する鉄鋼などの資材割り当て」という魅力もありました。

羽幌坑の開坑式(昭和23年8月)

開坑当時は、全く何も無い状態でした。
浴場は露天で六人も入れば満員というような五右衛門風呂。しかも、男女混浴なので恥ずかしくて一週間も入れないご婦人もいたそうです。

羽幌坑開発と同時に、築別鉱業所より分離し設けられた羽幌鉱業所

戦後開発された羽幌坑は、従業員の多くが樺太(現在・サハリン)からの引き揚げ者で、ここを第二の故郷として「骨を埋める」決意をした人が多かったようです。
そのため、昭和25(1950)年のストで築別坑が二分になった時も、「我、関せず」で石炭を掘り続けました。
スト後、鉱業所の足並みがバラバラでは経営上、支障を来すとの事で首脳陣は機構改革に取り組みます。


羽幌坑の主な施設・建造物

索道
(昭和25[1950]年2月完成)
羽幌坑の石炭は、3,248メートル先の曙まで索道(さくどう)を用いて運搬していました。

本坑会館
当時一番の娯楽であった映画を一年を通じて昼夜2回上映していました。
上映フィルムは会社が配給会社と直接取引をして購入。
人気の高い映画も仕入れていましたので留萌や羽幌よりも都会的だったようです。
会社の公休日は無料で入場できました。
昭和30年代に改修工事を施し、一回り大きくなりました。収容人数は600人。

改修前の本坑会館
羽幌坑が開坑してまもなく建てられました。

横から見た改修前の本坑会館。

 

公民館
小規模な催しや冠婚葬祭などを行いました。
昭和32(1957)年に発足した「生活簡素化実践委員会」により、「宴会はすべて一人当たり酒二合。婚礼は料理、酒合わせて200円以内。ご祝儀200円。葬儀の香典は200円」と決められました。

 

選炭工場・精炭ポケット
(昭和37[1962]年完成)
選炭工場は、後に完成する運搬立坑、名羽線とともに、羽幌坑の坑内外を抜本的に合理化し、高能率炭砿として業界を生き抜くための「合理化計画」の一環で建設されました。

>選炭工場について詳しく

運搬立坑
(昭和40[1965]年完成)
立坑(たてこう)とは垂直の坑道のことを言います。
地上の坑口から坑底まで512メートルで、一時間に単車80両、約1,000トンの石炭を揚炭できます。
人員は一度に50人を昇降することができ、今まで本斜坑まで一時間を要したのが約30分に短縮されました。

運搬立坑について動画を制作致しました。当時の貴重な映像をご覧下さい。
約6分:Copyright© Haboro Color Processing Laboratory & Video-Studio i-dia

健保会館
(昭和43[1968]年12月完成)
ステージの付いた大ホール、会議室、視聴覚教育のための映写室、調理室、浴室、和室5部屋がありました。
閉山後、羽幌町の高台へ移設し、レジャー施設になりました。


ガーリック自走支保とホーベルの組合せによる完全機械化採炭

昭和43(1968)年から築別坑の東坑が終掘、西坑へ移行となり生産量が半減、羽幌炭砿は羽幌坑が主軸となり、羽幌坑に課せられる生産量増大の責務は重くなりました。
しかし、羽幌坑も労働力不足は深刻で、会社はその打開策として完全機械化採炭を導入。
昭和43年度には113万トンの出炭記録を達成しました。

現在の羽幌坑