築別坑

昭和15(1940)年開坑。
羽幌炭砿開坑翌年の昭和16年から太平洋戦争が勃発し厳しい戦時体制下に組み込まれ、生活物資や資材、労働力の不足が日常化し、操業は当初の計画を大きく修正せざるを得ないものとなりました。
そのような中でも、国からの戦時増産の要請は強く、戦況の悪化に伴い悪循環を繰り返すように、坑道の維持や保安面を考慮しない乱掘、大量の朝鮮人労働者の移入による労働力確保など、羽幌炭砿は波乱ずくめのスタートでした。
終戦を迎えGHQが全国的に石炭産業を重要産業に掲げるが、羽幌炭砿は戦時中の増産命令による乱掘で荒れ放題となっており、更には自然発火事故が四六時中発生するなど計画通りの出炭には至らない状態でした。
そのような荒れきった坑内外を整備するため、朝比奈氏と濱田氏、二人のプロフェッショナルを羽幌炭砿に迎え入れます。

開発初期の築別坑(昭和17年)

警察に逮捕、連行される首謀者

戦後まもなく結成された労働組合による労働者の急激な意識革命による労働争議が全国的に頻発するようになります。
羽幌炭砿でも昭和25(1950)年、全国炭鉱産業初の無期限ストが勃発、首謀者10名が逮捕されました。

労働争議以降組合は再編され、羽幌炭砿の躍進を支える労資協調路線による、経営の安定的な基盤を形成することになります。

築別鉱業所

昭和27(1952)年頃から、本格的に福利厚生関係の整備を進めました。
それまで坑内外の様々な問題で福利厚生に手を付けられない状況というのもありましたが、昭和26年から出炭量が著しく上昇し経営面での余裕が生まれた事が背景にあります。


築別坑の主な施設・建造物

築炭会館新築落成
(昭和27[1952]年落成)
それまでの会館は、ムシロで風を防ぎ床は荒けずりの板を張り詰めたお粗末なものでした。
それが、2階まである800席の新会館となり、山深いヤマでもいろいろな文化が芽生えました。落成記念行事では、モチまきに始まり、三番叟(能の翁)、NHKのど自慢大会、楽団演奏が行われ昼夜とも超満員でした。

総合グランド
(面積12,360m2・昭和27[1952]年完成)
「健康なヤマ」を目指し、昭和23[1948]年に「体育会」をスタート。
軟式野球では留萌管内の試合では無敵。
他のスポーツと併せて「スポーツの築炭」として、その名を高めつつあり待望のグランド完成に毎日のように若者たちの歓声が築炭にこだましました。

羽幌炭砿鉄道病院
(昭和19[1944]年12月、医療センターとして整備。昭和31[1956]年224.5坪を増築)
内科、外科のほかに婦人科も新設された。
入院患者用ベッド50床。
医師は羽幌坑と上羽幌坑の診療所を含めて6人体制でした。

 

築別シャンツェ
(昭和32[1957]年完成、鉄骨、50m級)
昭和30年頃から羽幌炭砿は著しい飛躍を遂げました。その頃から各種スポーツ部にも力を入れ、施設の建設、有力選手の招致を行い成果を上げました。
築別シャンツェの50m級ジャンプ台は当時では珍しかった鉄骨で作られており、オリンピックの強化合宿など築別坑で行われました。
鉄骨は線路のレールを使用していました。

天の沢坑(昭和32[1957]年開坑)
昭和30年代、石炭の需要が高まり供給が追いつかない状況に、羽幌炭砿は築別坑の北に天の沢坑を開坑しました。
昭和37年には国内では珍しい「水力採炭」を実施しました。
水を高圧で噴射して炭層を粉砕、粉砕した石炭を水と一緒にポンプで坑外へ押し上げるというものでした。
しかし、炭層が急傾斜で薄層、断層もあり、水力採炭も期待していた効果が出ないなど問題が多く、昭和40年に閉坑しました。

選炭工場・貯炭場(ホッパー)
(昭和34[1959]年10月完成)
選炭工場は地中から揚げられた石炭に混じる不純物を取り除き、品質別に選別する工場です。
貯炭場は貨車に石炭を積み込み出荷する施設。
総工費1.8億円を投じ、当時の最先端技術を投入し建設しました。
1時間当たりの製炭能力230トン、年間60万トンを可能にしました。

坑口浴場(昭和35[1960]年11月完成)
鉄筋コンクリート防火作りで、総面積409.886m2、工費は1.178万円。
脱衣所はモルタル仕上げで、ロッカー1.036人分、濡れた作業衣もスチーム乾燥できるようになっていました。

大五百貨店
昭和35(1960)年、羽幌炭砿鉄道の直営会社として大五商事を設立しました。
大五百貨店では、生活物資を安価に提供し、従業員の生活向上に寄与していました。

築別坑の商店街について詳しくはこちら

辰巳橋
(架け替え、昭和38[1963]年11月竣工)
昭和38年、創業当時に架けられた木製の橋から、現在も存在する永久橋になりました。
かつて鈴木商店の先代、鈴木岩次郎が番頭として働き、その後、鈴木商店が暖簾(のれん)を譲り受けた「辰巳屋」の屋号に由来して辰巳橋と命名しました。

築炭消防団新庁舎
(昭和42[1967]年12月落成)
1階鉄筋モルタル造、2、3階木造モルタル造、スチーム暖房完備の地上3階建の新庁舎は消防団の建物としては管内一を誇る規模でした。
1階には消防車3両を収容できる車庫があり、2階は消防署員2名の住宅にあてられ、3階には事務室、休息室、ホース乾燥のスペースがありました。

四階建て鉄筋改良住宅
(昭和44[1969]年完成)
築別坑の炭住発祥の地、末広町1丁目に水洗トイレ完備の4階建てアパートが8月、第一期分として2棟48戸が完成、鉱員が入居しました。
前年9月から国のビルド山に対するモデルケースとして着工していたもので、第二期工事2棟48戸も同年9月に完成しました。


 

開発中の西坑

昭和43(1968)年頃から、自らヤマを去って行く人が目立つようになりました。
築別坑が大きな断層にぶつかり出炭が低下。
それを補うため、昭和41年に西坑の開発に着手し、昭和43年から採炭を始め、築別坑の若返りを図りましたが思うような成果が出ず、それが石炭が無くなった等の噂がながれ、将来に不安を抱く人が続出したのです。
築別坑は慢性的な人手不足に陥り出炭量も低下の一途をたどったのです。

現在の築別坑