羽幌炭砿の開坑

羽幌炭砿開坑までの経緯

明治7(1874)年アメリカの地質技術者ベンジャミン・スミス・ライマンが羽幌・初山別の調査をしたのが記録に残っています。
明治21(1888)年には北海道庁の四等技師でライマンの調査にも随行した経歴のある、桑田知明氏が初めて苫前炭田の調査を実施し、報告書の中で初めて「羽幌煤田」について触れています。
築炭は明治27(1894)年頃に佐藤平助氏が、上羽幌は明治33(1900)年渡辺裕太氏が、そして本坑は明治34(1901)年大松兼太郎氏がそれぞれ鉱区を設定している。

当時の地質調査隊(大正8年 羽幌の旅館前にて)

大正7(1918)年金子直吉氏を大番頭とする鈴木商店が苫前炭田一帯の鉱区を買収しますが、昭和2(1927)年の金融恐慌の中で鈴木商店は倒産。
60余社あったグループ会社は解散となり、 羽幌炭砿の鉱区は解散した会社の中の一つ太陽曹達(ソーダ)株式会社が引き継ぐこととなります。
昭和6(1931)年太陽曹達株式会社は社名を太陽産業株式会社と改めます。

 

当時の地質調査

羽幌炭田の開発は、当時石炭が国内エネルギー資源の主役であり、その価値が極めて高かったことや、昭和12(1937)年から始まる日中戦争と昭和16(1941)年に突入する太平洋戦争での継戦資源確保のための、戦時休制下での石炭増産を背景としたものであった。
太陽産業株式会社は築別・羽幌地区での炭鉱開発方針の決定に基づき、現地での調査を進めていきました。
昭和10(1935)年からは、後に初代鉱業所長となる古賀六郎氏が担当してボーリング調査を実施し、地下250mまでの地質・炭層状態を確認。
併せて炭質調査も進められ羽幌炭の発熱量・粘結性などの工業分析も行われました。

太陽産業専務金子三次郎氏が中心となりすすめられた炭鉱開発計画は、昭和14(1939)年に入って実施の段階を迎え、 羽幌駅前に太陽産業羽幌出張所を、築別上流の築別御料地内に太陽産業羽幌鉱業所を開設、炭鉱名を築別炭砿として社宅など施設の建設に着手しました。
昭和15(1940)年、太陽産業の所有する羽幌炭田開発のための運炭鉄道経営を目的とした、羽幌鉄道株式会社が設立。取締役社長に岡新六氏が就任しました。

昭和15(1940)年6月からは坑道の開削に着手。
東一号坑から四号坑の水平坑道と東本坑・東副坑の各斜坑の坑口がつけられるとともに、一部採炭も開始しました。
初年度の出炭は5,317トンと記録されています。
昭和15年に設立された羽幌鉄道(株)は、翌16年3月、太陽産業の炭鉱関係設備を継承し、炭鉱と鉄道の両事業を行うこととし、社名を羽幌炭礦鉄道株式会社とし、正式に羽幌炭砿のスタートとなったのである。

開坑当時の羽幌炭砿(築別坑)